お盆休みが終わりに近づき、まゆは旅行から戻ってきた両親に連れられて実家に帰っていった。 急に静かになってしまったマンションの部屋には、両親が置いていったお土産だけが残されている。明後日からまたいつものように出勤し始めれば気も紛れるのだろうが、一人で部屋にいると何だか妙に寂しい気分になってしまう。 夕方まで何をするでもなくぼんやりとしていたが、気を取り直し、とりあえずまゆが散らかしていった文房具やパズルを片付けてから夕食の仕度にとりかかった。 ピンポーン 一階のインターフォンから呼び出しがかかる。 「はい?」 「俺。まゆちゃんが今日帰るって聞いてたから、寄ったんだけど」 「まゆならもう父が連れて帰っちゃったけど。とにかく今開けるから上ってください」 しばらくすると今度は玄関のチャイムが鳴った。 鍵を外しドアを開けると、剛が所在なげな表情で玄関先に立っていた。 「どうぞ」 体を壁によせ、彼を先に上らせてリビングに通した。 冷えた麦茶を冷蔵庫からとり出しリビングに戻ると、剛はまゆが帰った後の室内を見回して、がっかりしたように溜息をついていた。 「いつ頃帰ったんだ?」 「2時間ほど前に。両親が旅行の帰りについでに寄って連れて帰ったの。まゆに会いに来てくれるのがわかっていたら、もうちょっと待たせておいたのだけど…」 それは嘘だ。 彼が来ることが分かっていればもっと急き立てて彼らを帰らせただろう。それでなくても、まゆの話の途中でたびたび出てくる『おにいちゃん』の存在に両親は興味深々だったのだ。 水族館に連れて行ってもらったことを始めとして、あれからまた一度夕食を食べにここに来たことまで、おしゃべりな4歳児は洗いざらい事細かに両親に報告したのだ。 「まぁ木綿子にそんな人がいたなんて、母さん知らなかったわよ」 母はそう言うとしたり顔で父を見た。父は渋い顔をしている。 「私はあなたの歳であなたと麻実を産んだんだから、まぁ、早すぎなんてことはないわよね、お父さん?」 父は無言で知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。 「でね、でね、お祖母ちゃん聞いて!お兄ちゃん、お店の人にまゆのパパって言われたんだよ、でね…」 さすがにそれを聞いた父が眉を顰めたのが見えた。 母は相変わらず暢気に「まゆ、その人男前?」などと笑いながら聞いていた。 「だから彼はお医者さんで、幼稚園の子が怪我をして偶然治療してもらっただけ。でその時いろいろとお世話になったから園長先生に…」 「はいはい」 躍起に釈明をする木綿子を宥めるように母が相槌を打った。 「で、お付き合いするようになった、と」 「違うって!」 その場に居た堪れなくなったのか、父はまゆを連れて近くのコンビニにアイスクリームを買いに行ってくると言って立ち上がった。 もちろんアイスに気を引かれたまゆは、父の先に立って玄関に向かって駆け出していた。 「気をつけてね」母が声をかけたが、すでに二人はドアの向こうに消えた後で、影も形も見えない。 「もう二人ともせっかちなんだから」 木綿子が笑うと母もつられて笑った。 しかし母は娘の顔を見ると、急に真剣な表情になる。 「木綿子、もしも真面目にお付き合いしている人がいるのなら、ちゃんと教えてね。あなたもそういうことがあってもいい年なんだし、お父さんも私もあなたが分別を持っていると信じているから何も言わないわ。ただ…お父さんは麻実のときのことがあるから不安なのよ。でもあなたはあなたであって、麻実とは違う」 木綿子は頷いた。 「でも、彼のことは本当に何でもないの。彼は私に興味があるのではなくって、まゆを気に入って、すごくかわいがってくれるから」 母は小さく溜息をつくと娘の手を取った。 「まゆの話を聞く限りでは、そうとは思えないけど」 「でも彼は私なんて…まゆがいるから私もついでに誘ってくれるだけよ、きっと」 信じられないという顔で母が呟く「あなたって娘はまったく…」 「私なんてそんな対象になることはないんだから。今までだって、誰もそういうことを言ってきた人はいなかったし」 「それは母さんたちも悪かったのよ。あなたにまゆの母親役なんてさせてはいけなかったのに。あの子があまりにも懐くからつい甘えてしまって…」 母は表情を曇らせた。 「あなたはもっと自分に自信を持ちなさい。そして自分の時間を大事に、今を楽しみなさい。まゆは私とお父さんがちゃんと育てていくから。麻実だってあなたに自分を犠牲にしてほしいだなんて思っていないわよ、きっと」 「――ないか?」 「えっ?」 「寂しくないか、って聞いたんだよ」 あれから剛に夕食を勧めた。と言っても冷蔵庫の残り物であっさりとした煮物を作り、両親の土産の干物を軽く焼いた簡単なものしかなかったのだが、何となく二人とも食欲がわかなかった。 木綿子が食事の後片付けをしている間に、彼は近くのコンビニでビールを調達してきて、今二人は缶ビール片手にソファーにもたれて、リビングのラグの上に座り込んでいる。 「寂しいというよりは、静かすぎて気が抜けたって感じ。ここで誰かと生活したことなんてなかったから…」 「何か子供一人いないだけで、こんなに家って広く感じるもんなんだな」 ビールを煽りながら剛が小さく呟いた。 まゆがいた間は床に散らかりっぱなしだったおもちゃやクレヨンを片付けると、室内が妙にこざっぱりとして見える。 「あの…いろいろとまゆのことを気にかけてくださってありがとうございました」 急に居住まいを正して礼を述べた木綿子に、剛は事も無げに言う。 「俺も楽しんでたから」 「でも、せっかくのお休みを…」 「休みの過ごし方としては十分有意義だったと思うよ、俺としては」 そして彼はぼそっとこう続けた。 「自分の家族を持つって…父親になることって案外いいものかもしれないと思えたし」 木綿子は訳が分からず、きょとんとした顔で彼を見つめた。 生活感のない剛の口から、家族だとか父親だとかいう言葉が出てきたことが信じられない。 無言でじっと見つめられた剛は、柄にもなく赤くなった頬を隠すように顔を背けた。 「あの子を、まゆちゃんを見ていると何となく他人って感じがしないんだ。ああいう具合に素直に懐いてくれると、こう、何て言うか巧く言えないけど、かわいくて仕方がないっていうか…」 どうやら彼もまゆの天真爛漫さにKOされたようだ。 それとも急に父性愛にでも目覚めたのだろうか。 どちらにしても剛とまゆは良い関係を作っている。二人が互いを見るときの「大好きオーラ」はそこいらの親子のそれに引けを取らないくらい強烈だ。 見ていて笑えるくらいに。 「だったら自分も早く結婚して子供を持てばいいのに」 俯いてこみ上げる笑いを押し殺しながら、冗談のつもりで言うと、彼は急に顔をこちらに向けた。 「ああ、実際いてもいいなと思ったよ、君との間にならね」 その真剣な声に驚き顔を上げると、彼女を見据える彼の視線があった。 いつものように揶揄を含んだ軽いものではない。その強さに思わず怯んだ。 「え?何で私が…?」 意味が理解できず間抜けな顔で聞き返した木綿子に、剛はがっくりとうなだれて床に転がった。 「今、俺すっごい頑張って告ったつもりなんだけど」 「え?え?だって…」 すっかり混乱した頭では、まったく考えがまとまらない。 剛は諦めたように大きく息を吐き出し、さっと起き上がると両手でじたばたと暴れる彼女の肩をつかんでこう言った。 「市瀬木綿子さん、俺と付き合ってください。どうだ、これで理解できたか?」 木綿子は目をぱちくりさせた。 驚きのあまり息ができず、心臓が止まるかと思うくらい動転した。 学生の時でさえろくに告白したりされたりした覚えがないのに、ここにきてのこの急な展開は一体何なのだろう?一瞬頭の中が真っ白になり、ますます考える力は低下していく。 「返事は?」 「は…い?」 「ということは了解だな」 「へ?」 目の前の男は一人で勝手に満足げな笑みを浮かべて彼女を見ている。 「では手始めに」 硬直したまま動けない木綿子を引き寄せると、素早く唇を重ねた。 「ん、んんーんっ」 呼吸を奪われもがいていたが、段々と動きが鈍くなる。しばらくして急に木綿子の肩から力が抜け、がっくりと身体を預けてきた、と思ったら腕の中の彼女はすっかり意識を飛ばしていた。 「おい、こら」 剛は軽く木綿子の頬を叩いて起こそうとするが、アルコールの力も手伝って、すでに彼女は夢の世界の住人になっていた。 二十四にもなる大人がキス一つで意識を飛ばすとは…。これから先が思いやられそうだ。 「……頭痛くなってきた」 彼は缶に残ったビールを一気に空けると、大きな溜息をつきながらそう呟いた。 HOME |